FLY TO THE FUTURE-第1章 途方もない夢への離陸14-

2018年07月11日

 昭和九年二月、義三は甲府練兵場で試験

飛行を実施した。また翌月には、第一期

機関練習生三十五名が卒業した。

 義三は、その昔、自分が羽田の飛行学校で

初めて飛行機に乗り雄大な感動を得たように、

飛行機の魅力を一人でも多くの人に知って

ほしかったのである。そして飛行機への

理解を高め、山梨における飛行場建設の

協力者を増やしたい思いもあった。

 なにしろ莫大な費用が係る一大事業で

あるから、自己資金だけでは十分でない。

山梨の政財界などからの支援も得て、

一歩ずつ学校を学校らしく整えていった

のである。

 その頃、山梨日日新聞社社長の野口二郎氏

たちが甲府飛行倶楽部を結成し、長野県の

赤砂に飛行場を持っていた。野口氏は

山梨県で最も航空に理解があり知識が深く、

義三の航空学校の事業にも積極的に協力して

くれていた人物である。甲府飛行倶楽部でも

義三の所有しているサルムソン機と同型の

飛行機で民間の航空事業を行っており、

そこに井上氏、篠田氏という優秀な飛行士が

所属していた。義三は航空局の正式な検査を

受けるにあたり、彼らに自分のサルムソン機の

整備を依頼した。それを引き受けた井上氏、

篠田氏と二人の部下が、甲府練兵場の隣の

格納庫でサルムソン機の分解、洗浄、整備を

行った。その後、航空局から航空官がやって

来て内部検査を行い、合格。さらに、練兵場で

航空官に試乗もしてもらい、耐空試験も合格し、

耐空証明書も得ることができた。

 義三はこうしてさらに体験飛行の機会を

増やそうとしていた。一人でも多くの人に

飛行機のすばらしさを実感してもらい、

進めている航空事業への理解を得たかった

のである。

 飛行場がないので、体験飛行は甲府練兵場を

借りて行っていたわけだが、あるとき、肝を

冷やす出来事が起きた。

 その日、体験飛行が無事に終わり、あとは

義三自身が搭乗してそのまま飛行機を玉幡の

飛行場建設地へと飛ばし、整地工事に従事して

いる作業員たちに感謝を込めてパンを投下する

計画だった。だが、滑走体制に入ったところに

突風が吹き、機体は百メートルも暴走した。

あわや見学に来ている群衆に突っ込んでしまう

ところだったが、操縦桿を握っていた篠田

飛行士がとっさの判断で操縦桿を右に切り、

訓練用の石垣に衝突させることにより群衆の

いる方から逃れて惨事を免れた。

 義三は、強風で制御が効かない飛行機の

なかでの己の恐怖よりも、多くの人たちの命を

奪ってしまったかもしれないという恐怖に

身がすくんだ。

 そもそも、甲府練兵場は正式な飛行場では

ない。せまい場所でだましだまし飛行機を

飛ばしていたのだから、このようなアクシデント

はいつまた起きるかも知れず、見学者の安全を

完全に保証できる環境ではなかった。

 「やはり飛行場の完成を急がなくては

ならない」

 それは、もはや義三が己に課した命がけの

任務ですらあった。

 時代はだんだん軍国主義へと傾倒していた。

 義三はたびたび上京しては、航空局や帝国

飛行協会の四王天中将を訪ね、玉幡飛行場

建設の進捗状況を報告し、指導を受けていた。

―つづく―


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