FLY TO THE FUTURE-第1章 途方もない夢への離陸10-

2018年05月10日

 飛行場建設にはまず用地が要る。

 義三は山梨県内のほうぼうを見て回り、

中巨摩郡玉幡村(現・甲斐市)に適した

土地を見つけた。釜無川の河川敷に広がる

二万坪の荒野である。数年後には十二万坪

となる最初の土地である。

 地主は東京在住の事業家だと知り、義三は

挨拶に出向いた。そして、航空業界への

情熱を語り、これからこの土地に飛行場を

建設し、併設して飛行学校をつくり航空

業界で活躍する人材育成に心血を注ぐのだと

懸命に思いを伝えた。

 最初ははかばかしい返事をしなかった

地主も、何度も山梨から東京まで通って

来る義三の熱意にうたれ、売却に同意して

くれた。

 こうして土地が入手でき、飛行場建設の

目処がたったことから、義三は自宅入り口に

自身が会長に就任した『山梨在郷軍人航空

研究会事務所』の看板を掲げた。昭和七年

十月、三十五歳の義三は新たな夢への一歩を

踏み出したのである。

 昭和七年といえば、アメリカでは

ロサンゼルスオリンピックが開催され、

日本は水泳陣が圧勝。中国では上海事変が

勃発し、満州国建国を日本が世界に宣言

した年である。

 義三は自宅裏の小屋に机や黒板などを

入れて教室とした。その教室では実習が

できないため、近隣の小学校に『航空機

実習所』と『発動機実習所』を開設し、

校庭では機体組み立て実習を行うことに

した。

 集まった生徒は十人足らずだったが、

皆、飛行機に夢を抱き、目を輝かせていた。

 これが日本航空学園の始まりである。

 

 当時、義三は在郷軍人の補充兵として

第一分会に入っており、経理と会計を担当

していた。そこで、ある日、役員会の席で

「東京の洲崎飛行場に帝都在郷軍人航空

研究会があるので、一度皆さんと見学に

行きたいがいかがだろうか」と呼びかけた。

「会に費用の余裕がないのは承知している

ので、私が負担しますから、希望者は遠慮

なく言ってください」と添えて。そして

十名ほどの希望者を率いて洲崎飛行場に

行き、参加者全員に一人十分間の試乗

体験飛行を実施した。初めての飛行体験に

全員が感動し、まるで子どものような

笑顔で飛行機を降りて来た。これも航空

事業の重要性を理解してもらい、航空学校

設立への思いを共有するための試みの

ひとつだった。

 

 しかし、周囲の目は好意的なものばかり

ではなかった。

 「素人がこんなことをやれるものか」

 「梅沢という奴は何を考えているんだ」

 軍人関係者などからはことさらそのような

馬鹿にした声があがっていた。

 それは義三の耳にも十分入ってきていた。

 「今に見ていろ」

 見下された悔しさを明日へのエネルギー

に変えるしかなかった。負けん気の強い

義三である、このままで終わるはずが

なかった。

―つづく―


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