FLY TO THE FUTURE-第1章 途方もない夢への離陸8-

2018年04月19日

 この間、義三の環境にも変化があった。

結婚し、昭和二年に長男・鋭蔵が誕生して

いる。精鋭部隊を率いる将軍になるよう

に、と「鋭」の字を名前につけた。

 また、飛行機の話題でいえば、昭和

四年七月十五日、日本初の定期旅客輸送

飛行が始まった。東京・立川飛行場から

乗客六人と乗員二人を乗せた飛行機は

大阪・木津川飛行場に無事に着陸、さらに

その後、福岡の大刀洗飛行場に飛んだ。

当初の飛行機は、フォッカー・スーパー

ユニバーサル機(六人乗り、巡航時速

百八十キロ)、フォッカーF7機(八人

乗り、巡航時速百六十キロ)の二機種で、

いずれも欧米で安全性と経済性が高く

評価されているものだった。

 そのニュースを知った義三は、とうとう

航空が普及する時代が幕を開けたと感じた。

義三は山梨で事業を行うかたわら、在郷

軍人会の役員として熱心に活動していたが、

あるとき、甲府の四九連隊の練兵場(塩部)

で小型飛行機の離着陸を見せる会を開催

したところ、一枚五十銭の入場券が飛ぶ

ように売れて、おおぜいの見物客が集まっ

た。昭和恐慌のさなかにも関わらず……。

 会の内容は、飛行士が小型飛行機の

離着陸を披露し、東京方面へ帰って行く

だけのものだったが、見つめる観衆の

まなざしは熱い。

飛行機が離陸したり着陸したりする姿に

歓声が上がり、熱気が会場に満ちた。

「民間人がこれほど飛行機に関心がある

のか!」

 義三は驚き、飛行学校で学んだ経験を

持ち航空への情熱を抱く者として、航空界

への時代の要請が高まっていることに歓喜

を覚えた。

 そして、そのとき、天啓に打たれたかの

ごとく、ひとつの思いが義三を貫いたので

ある。

 それは「航空界に身を挺しよう」という

決意だ。

 かつて跡取りの責務を全うすべく諦めた

飛行機への思いが鮮やかに蘇ってきた。

 自分もせっかく航空学を学び技術を修得

した身、今このとき、日本の発展のために

航空界での人材育成を始めようではないか。

 ……飛行学校でのシーンが蘇る。

「将来は定期的にお客さんを飛行機で輸送

する会社を作りたいのだ」

 校長が夢を語る。

「ならば、私はそこで働く飛行士や航空

機関士を育てる学校をつくりましょう」

 義三も夢を口にする。

 

 あのとき口にした夢を実現していくのだ。

 折しも失業者三百五十万人という不況に

あえぐ日本において、日本の未来へまなざし

を向け、このような決心をした義三。順調

にいっている家業がありながら、あえて

航空という未開の業界への挑戦を決めたのは、

大きなリスクを背負うことでもあった。

だが、彼の全身には持ち前の「欲しいものは

何としても手に入れる、やりたいことは

どんな努力をしても成し遂げる」という

負けん気が満ちていた。

―つづく―


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