FLY TO THE FUTURE-第1章 途方もない夢への離陸6-

2018年03月07日

 不本意ながら飛行学校を諦め、大学を

卒業して実家に戻った義三であったが、

その運命を受け入れてやる気を出すと、

もともとの負けん気の強さを発揮して、

懸命に事業に取り組んだ。

 その頃、山梨県には大資本を投下して

いる木炭業者がおらず、北海道、九州、

山陰などからの仕入れに頼っている零細

業者しかいなかった。そこに目をつけた

義三は、全国各地の木炭の主要生産地を

自ら訪ねて商談を重ね、特約販売の契約

を整えて、仕入れを行うことにした。

 また、コークスについては、大阪のガス

会社のコークス販売を一手に担っていた

会社と契約し、山梨だけでなく静岡、群馬、

埼玉、栃木など関東一円の販売権を取得した。

 通信手段も交通手段も今のように発達

していない時代のこと、義三は契約を取る

ために何日もかけて自分の足で現地に赴き、

一回で駄目なら二回、二回で駄目なら三回、

と契約を取れるまで粘り強く交渉の努力を

続けた。その忍耐強さがやがて契約を増や

し、売上の増加、利益の拡大へと実を結ん

でいった。

 事業が順調に運ぶと、やがて義三は拠点

を甲府の中心部へ移し、商売も広げた。

 義三の商売人としてのDNAは、父だけ

でなく、もともとは義三の祖母・つねから

受け継いだともいえよう。

 つねは、甲府市朝日町を中心に多くの

貸家を有し、月末にはそのすべてに自ら

家賃の集金に回っていた。銭湯も経営して

いた。余談だがのちに義三の子の鋭蔵は、

銭湯の番台に座っている祖母の膝で育った

ようなものだった。

 つねの行っていた商いは毎月必ず売上が

立つ堅実なもので、貸家及び銭湯の店舗と

いう資産を基盤としてそこからお金を生み

出す仕組みである。そんな祖母を見ていて、

無意識のうちに義三は商売の基本を学んで

いたのかもしれない。

 何より、人に雇われるのではなく、自分の

知恵と努力でいかようにも展開していける

事業家という生き方は、常に好奇心とアイ

デアと行動力に満ちた義三にとって最適な

道であったといえるだろう。

 言い方を換えれば、どのような環境に

あっても、義三の「欲しいものは絶対に

手に入れる」「やりたいことはやる」と

いう有言実行力は少しも失われることなく、

成長していったのである。

―つづく―


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