どのような仕事にも意味がある

2015年06月26日

 

 掃除をしないと、家はきれいに保てません。

洗濯をしないと、衣類は不潔なままです。料理をしないと、

食べることができません。私たちが快適に暮らし、おなかを

いっぱいにするために、誰かが掃除、洗濯、料理などの

仕事をしてくれています。

 それに気づくためには、小さいころから家の手伝いを

することが大切です。そうすれば、毎日家事を繰り返している

お母さんの大変さがわかるでしょう。

 親が子どもにトイレ掃除の仕方を教える、子どもはトイレの

掃除を一生懸命する。幼い子には大変だけれども、お母さんや

お父さんが掃除をしてくれているからトイレがいつもきれいな

ことがわかれば、使うときに汚さないように気をつけるように

なります。自分が掃除をした後で「きれいになったね」と

言われて喜びを味わう経験も、尊いものとなります。

 

 洗濯は洗濯機がするといっても、まずは洗濯物を素材や

色で分類しなくてはなりません。洗濯機にかけたら、なかの

ものを取り出してパンパンと叩いてシワをのばしながら

干します。乾いたら洗濯物を取り込んで、畳まなくては

なりません。そして、クローゼットなどにしまいます。

 洗濯とは、そこまでのさまざまな作業が伴う仕事です。

汚れたものを洗濯カゴに入れておけば、いつのまにかきれいに

洗われ、畳まれてクローゼットに入っていたけれども、

じつはお母さんや世話をしてくれる誰かがいつも手間ひま

かけてきれいにしてくれていたことが、洗濯の手伝いをする

ことでわかるようになります。

 味噌汁をいつも残す子どもがいます。でも、お母さんが

「一緒に、味噌汁をつくろう」と言って、つくり方を

教えれば、煮干でダシをとる、野菜を刻む、味噌こしで

味噌を溶く、味見する……といった一連のプロセスが

わかって、味噌汁ひとつつくるにも手間がかかっていることを

学べるのです。

 自分が鍋に煮干を入れてとったダシ、自分が包丁で刻んだ

野菜が入っていれば、その味噌汁を残す気持ちにはなりません。

そして次からは、自分のために誰かがつくってくれた味噌汁を

残さないようになるでしょう。それは、つくる大変さを知る

からです。

 

 世の中も、毎日の暮らしも、一つひとつ小さな仕事の

積み重ねや繰り返しがあってこそ、成り立っています。誰かが

誰かのために一生懸命にやっている仕事に支えられて、

私たちの日々の快適な生活が実現できています。

 それに気づくとき、「おかげさまで」という感謝の気持ちを

知ることでしょう。人は一人では生きていけません。

 

ーこの人に学ぶー

豊田佐吉(とよた・さきち)
 豊田佐吉は慶応三(一八七六)年に遠江(とうとうみ)に
生まれました。「人のためになる事業がしたい」という気持ちが強い青年でした。
 佐吉の母は、手織り機で毎日機(はた)をを織っています。
それを見ていた佐吉は考えました。
「あんなに毎日やっても、でき上がる量はわずかで、ひどく
効率が悪い。もっと早く、たくさんの布を織る機械は、できないものか」
 布には縦糸と横糸があり、縦糸の間を横糸が左右に往復
して、線を面にしていくことで織り上がっていきます。その
横糸を機械でもっと早く正確に動かせるようにできれば、
というアイデアがありました。
 ちょうどそんなときに、東京で内国勧業博覧会が開かれ
ました。
それを見るために上京した佐吉は、機械館に日参して、展示
されている機械を見続けました。しかし、気がつけば展示品は
外国製ばかりで、日本製の機械は一台もありません。
 これでは日本の将来はないと思った佐吉は、村に帰ってから
機織り機の研究に没頭します。納屋にこもって設計図を描き、
試作品をつくり、動かしてみる。この繰り返しです。何度失敗
しても諦めず、試行錯誤の末ようやく完成に至りました。そして、村人たちの前で機織り機の実演をして見せたところ、
大喝采を浴びました。
 その後も佐吉は研究を続け、一生を機織り機の研究開発に
捧げました。大正十三(一九二四)年、ついに佐吉が
豊田自動織機G型を完成させました。一定のスピードで布を
織り、縦糸が切れると自動的に機械が止まり、横糸がなくなると自動的に補う仕組みとなっている。このような機械は世界初
でした。「魔法の織り機」と言われ、欧米の技術者からも
賞賛されました。
 佐吉が研究に没頭してから、なんと三十年もの月日をかけて
結実した努力の賜物でした。長い間、佐吉は笑われたり
疎まれたり、貧困と闘いながらも、けっして諦めることなく
研究を続けたのです。世のためになる事業をしたいという
思いゆえのことです。
 佐吉の発明によって日本の織物産業、繊維産業は大きく発展し、世界でも高く評価されるようになりました。

伊能忠敬(いのう・ただたか)
 
今でこそコンピュータや宇宙衛星で、世界中の地図どころか
世界各地の街並や風景を見られるようになっていますが、
江戸時代中期に日本中を歩いて実測して地図をつくったのが
伊能忠敬です。それも忠敬が五十歳から始めた偉業です。
 上総の国の名主の家に生まれ、下総の伊能家を継いだ忠敬は、酒づくりや米穀取引などの事業で成功し、困っている村民を養うような心やさしい名主でした。しかし、息子に家を譲った五十歳のとき、これからは勉強して人のために尽くしたいという思いで江戸に向かいます。
 天文学や暦法が好きで熱心に勉強していた忠敬は、まず
幕府天文方の高橋至時(よしとき)を訪ね、知識の深さに
感銘し、門弟となって数年にわたって教えを受けました。
 そして、五十六歳のとき、幕府の命によって、まずは
蝦夷地東南沿岸から実測を始めるのです。人が足を踏み入れて
いない土地から実測を開始し、十六年かけて日本列島全体を
ほぼ歩きました。測量距離は、地球一周分にも相当するほど
でした。
 こうして全国の測量を終えたときの忠敬は、七十二歳に
なっていました。しかし、それ以降も、実測をもとにした
地図の作成に打ち込みます。これが『大日本沿岸興地全図』
であり、日本で最初の精密な地図となりました。
 天文学の知識があった忠敬は、測量法に天体観測を用い、
日本の位置や形状を明らかにしました。まさに人生をかけた
この大偉業は、世のため人のためにほかなりません。

二宮尊徳(にのみや・そんとく)
 
江戸後期に相模の農家に生まれた二宮尊徳(通称は金次郎)は、家が没落し両親が亡くなったため、伯父の家に世話になることになりました。このとき彼は十六歳でした。
 尊徳は朝から夜まで働き、わずかな時間を見つけて勉強を
しました。しかし、伯父は「農民に学問はいらない」と言って、夜に本を読む灯の油を使わせてくれず、「そんな時間があったらもっと働け」と、夜も仕事を与えました。
 仕方がないので、尊徳は空き地に菜種を植え、種子から
菜種油を採って明かりに使うことにしました。夜は縄をなう
などの仕事をして、皆が寝静まってからこっそりと見つから
ないように読書をしました。コツコツとよく働きよく学んで、尊徳は二十四歳までに没落した家の復興を果たすのです。
 普通の人には耐えられないような辛苦にも負けず、常に世のため人のために尽くすのが尊徳の生き方でした。
 のちに、大名や旗本たちの財政再建や、領民の救済などにも
尽くします。大飢饉に見舞われたときに尊徳が復興事業を
行った農村の数は、六百以上にもなりました。尊徳の考えは、
私利私欲に走らずに社会に貢献すれば、いずれ自らに返って
くるという「報徳思想」です。
 以下にいくつか、尊徳の名言をあげておきます。
・すべての商売は、売り手喜び、買い手喜ぶようにすべし。
 売りて喜び買いて喜ばざるは道にあらず。賃借の道も、
 また貸して喜び、借りて喜ばざるは道にあらず。
・貧富の違いは、分度を守るか失うかによる。
・道徳を忘れた経済は、罪悪である。経済を忘れた道徳は、
 寝言である。
・人道は一日怠れば、たちまちすたれる。
・誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。
    術策は役に立たない。


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